「午後6時半にはペルフーンの所に集まって、それからユッタの所に行くのよ。御呼ばれね。
ペルフーンがデンマークのワインを買って来ることになっているので、今晩はワインが飲めるっていうわけ」
ペルフーンの住所を記した紙切れをヒロに手渡しながらモッドは言った。ペルフーンの所で何が始まろうというのだろうか。
とにかく、ヒロも参加することを許された。仲間の一人として認めてくれたのだ。
それはその日の昼食時のことであった。従業員用の食事室には昼のラジオが付けられている。久し振りに数人が集まった昼食であった。
モッド、ユッタ、インゲラ、ペルフーン、ヤンソン、そしてヒロと6人が一緒に集まって、談笑しながらの食事を取っていた。
口と両手は食べることに忙しかったヒロは彼等達の喋り合いを黙って聞いていた。
普通のスピードで話す彼等達のやり取りを理解しようと耳を凝らしているが、殆ど理解出来ずに会話はどんどんと進んで行く。
皆の食事は終わった。
ユッタが皆の代表として階下へ”食後のコーヒー”を取りに行った。
細長いステンレス製の盆に6人分のカップ、皿、匙、そしてコーヒーの入ったポット、砂糖を乗せて運んで来た。
彼女はいつも皆の冗談の肴にされる。年金生活者でしかもこのレストランで仕事をしているペルフーンとヤンソンとは彼女をからかうのが趣味のようでもある。
どのように彼女をからかっているのか、残念ながらその内容は理解出来ない。スウェーデン語の能力がまだ不十分なのだ。でも彼女をからかっているということは分かる。
からかうと言っても馬鹿にしているわけではない。親愛の情から出たものであろう。尤も当の本人、彼女がどのように思っているのかは分からない。
想像するしかない。または外的な反応で推し量るしかない。彼女はハイティーンか20才代の初期であろう。
ある時、盛り上がった肩をちょっと突付いた時の、彼女の反応が忘れられないが、いまは覚えていないことになっている。
一方、年金生活者の二人は既に60を過ぎているに違いない。若い女の子をからかうことは一つの喜びと称せられるもの。しかし、彼女は男性の目か見るとからかってやりたくなるような雰囲気をもっている。
大きなバスト、太い両足、そして容姿は背一杯、若い女性としての化粧が施されている。
ヒロと目が会う。と、彼女は吹き出してしまいそうになる。自分を、その両手を口許に宛がって堪える。笑いが両目から漏れているのが見える。
そんな動作が男の目から見ると愛くるしく思えるのであろう。
しかし、彼女、何がそんなにおかしいのだろう。何かを想像して、その想像に笑いを 誘われているのかもしれない。笑い上戸。
彼女は一人一人に皿、カップを配る。が、我々男性三人に対しては少し投げやりの態度で相対するのであった。
カップと皿は配られた。匙が欠けているではないか。ヤンソンはそれを彼女に要求する。彼女はそれを彼に向かって好い加減に抛る。
彼は彼女のそんな対応に何か負けじと変なことを言い返す。彼女は更に投げやりの態度を亢進させる。カップの中にコーヒーが注がれた。が、砂糖がないでないか。
ヤンソンはそれを彼女に要求する。
幾つ欲しいの?彼女は彼に聞く。四つ、と彼は答える。
彼女は角砂糖を一個ずつ彼の方に向かって彼が受け取れないようなとんでもない方向に投げてやる。彼は受け取ろうと身を大袈裟に乗り出して砂糖を捕捉、確保しようとする。
と、そんな彼女の動作が災いしてか彼女の身体の一部が自分自身のコーヒーカップに触れた。コーヒーがこぼれて、彼女のタイツのようなスラックスを汚したらしい。
彼女の失敗を目撃したヤンソン、そしてヒロもつい釣られて両手を叩いてはしゃいだ、男たちは彼女の不幸を喜んだ。お互い様だよ、と。
我々、いや少なくともヒロを除いた彼等達の談笑が続く。ヒロの存在を思い出したが如くヤンソンがヒロに向かって質問してくる。
「ユッタの所に行ったことがあるかい?」
そんな風に聞いているように思われた。一度聞いただけでは分からない。それを見て取った彼は質問を繰り返す。
「ユッタの所に行ったことがあるかい?」
ユッタ? ユッタとは何だろう? 頭の中を探るが、理解出来ない。ヒロは口に出して言う。
「ユッタって?」
発音からヒロはフィンランドで聞き覚えた単語を連想した。確かフィンランド語でロックンロール音楽を意味する言葉。
しかし、彼のこの質問とどう関連するのか。スウェーデンでも同じ単語なのか。あっ、とっさに閃いた。ヒロは彼女の方に向いて聞いた。
「それってあなたの名前?」
彼女は頷いた。彼女の名前がそうであることを始めて知った。彼女とヒロの心理的距離が、その時、更にぐっと狭まったように感じた。
「ユッタのところに今晩行くのだが、どうだい?」
彼はヒロに同じような質問を続ける。ヒロは口を閉ざしたまま、頭の中で考えている。どう答えようか?行きたいのか、行きたくないのか。頭の中で答えるべきスウェーデン語を作文している。
ヒロは聞き覚えていたスウェーデン語の言い回しを言った。
「それは上手く行くでしょう」
途端にそこにいた皆は一斉にどっと大笑い。他人任せに聞こえる、少々的外れな答えがとても可笑しかったのだろう。
意想外にも皆を笑わすことが出来てしまったヒロは満足であった。ようやく彼等スウェーデン人達の喋り合いにそれなりに参加出来ている自分を感じた。
「でも、ソファーは四つしかないわ」 ユッタは言う。
「四人よ」 モッドが透かさず継ぐ。
四人とはヒロと、インゲラとユッタと、そしてモッド自身を意味するのであった。話は決まった。皆それぞれいっせいに立ち上がった。
昼食は終わった。二人の年金生活者は来ないのだ。
ヒロも今晩、ユッタの所に行くことに決まった。そう理解した。とにかく一緒に連れて行ってくれるのだ。しかし、そこで何を行われるのだろうか?
この点については理解できなかった。
それはそこへ行った時に分かるというものらしい。事前に知らされないので好奇心が募る。
その日の仕事は午後3時に終わった。通例の如く、図書館に行った。午後6時半にはペルフーンのアパートの部屋に一人で行くことになっている。6時過ぎに退館
しよう。約束の時間に遅れてはいけない。充分な余裕を持って行こう。
退館前、トイレに寄って腹の中を空にする。今晩はまた酒(ワイン)を飲むのだ。何度もトイレに立って行くことに何故か気が引かれる。
そういう事態にならないように初めから用意周到に準備だ。
まだ午後6時半までには時間が20分ほどあった。ヒロ一人だけ先にペルフーンの住む所に来てしまい彼と一緒に部屋にいる自分の気持ちを思いやった。
何故か彼とは馬が合わない。最初の出会い以来、冷ややかな両者の細いつながり。顔見知りという関係。
そう感じているヒロ。実はペルフーンとは個人的に言葉を交わしたことが殆ど無い。二人だけで一緒にいては気まずい思いに成るのでないかと恐れ、そんな気持ちに浸りたくはない。
6時半過ぎに、ちょっと少し遅れて行こう。モッドとインゲラの二人に、入り口で偶然合流したといったふうに多分会えることを期待した。
電灯の点った、商店の中から漏れて来る光の中、市街を歩いていた。目的もなく、ただ街中をうろつき回っていた。