つい二日前にそれが起こったとは思われない。まるで別世界の出来事のようだ。確かにそれは別世界で起こった。
夜、そして深夜。しかも普通の夜ではなかった。普通の深夜ではなかった。つまり、特別の夜、深夜であった。勿論、昼間の出来事として想像することは出来ない。ヒロにとっては未だ嘗て体験したことない出来事である。だから、誘いを受けようか、どうしようか、と迷った。彼女は、あの別の彼女を通して、
ヒロに「もし宜しかったら、ついて来ませんか?」と打診、尋ねてきた。
この招待は意外であった。と言うよりもそもそも予想していなかった。予想の仕様がない。今までの状況を考え合わせて見るとそんなことがヒロに対して行われること
は先ず無理であった。
ヒロの思考の中には招待の“し”の字も見出されなかった。
しかも、まだ一度も口を利いたこともない彼女からの申し入れた。ヒロは彼女のことなど殆ど知らない。
だた同じレストランで働いているという共通点が見出されるだけだ。
初めて彼女を見た時の印象は、ところが非常に強烈な、衝撃的な印象として後々まで尾を引いていた。
白色に近い金髪、プラチナ金髪とでも言うのか。金髪と一概に言われるが、金髪にも
色々と種類があるようだ。
一度見たら忘れることが暫くは出来ないであろう、あの眼の鋭さ。と言っても相手を射すくめるような険悪地味たものではない。多分、大きく見開かれた青色の両眼と白い肌とのコントラストがそのような鋭さを生み出すのだろう。年はどのくらいだろう? ふとそんな
ことを想像をするのであった。女性を見る目、それはまず年齢を定めようとする。
10代ではなさそうだ。ヒロとそう大して違わないのだろうか。ヒロはそう評価した。
20代の後半だ。若くはない?
10代の女性(女の子)を若い女性と見るならば、
彼女はもう若くはない。10代の女の子達を見たり眺めたりする機会が多かったので、そんな風に
ヒロの目も慣らされてしまったのかもしれない。彼女は普段、ヒロが見たり眺めたりする女性達とは
どこか異なった印象をヒロに与えていた。彼女の容姿がヒロをしてそんな印象を持たせたとも言えよう。
金色の丸い輪になった耳飾りをしていた。それが彼女に良く似合う。
ヒロはそう思った。良く似合う、と。白い細い両足。白いストッキングを履いている。仕事場の中を目的の物を取りに行く時、歩行に無駄がない。最短距離をてきぱきと歩き進んで行く。まるで他人など眼中にないといった風だ。そんな彼女を見ていると、その印象的な容姿に惹かれながらも、
ヒロも彼女の眼中からは外されていると思わされるのであった。彼女の鋭い視線はヒロを拒否しているように
見えるのであった。しかし、ヒロは執拗までに彼女の姿を目で追うのであった。
ヒロは休憩を取っていた。タバコを吸いながら開かれたドアを通して見られる遠くの彼女の
持ち場の方を眺めるともなしに眺めていた。眺めていても目を凝らして眺めていたわけではなかった。今まで至近距離にあった、たくさんの洗い物から暫く眼を離し、少しでも遠いところに視線をやるのであった。が、どこに定めるかは決まらない。自然と開かれた
ドア越しに視線は流れて行 った。そこには人々が働いている。一方、ヒロは今、こうしてタバコを吸いながら何を考えるとも なしに一種の放心状態で腰掛けているのであった。
あっ、彼女だ!
彼女がこちらにやって来る!こちらに向かってくる。
ヒロの方へと進んで来る。
ヒロは頭の中で自分に言い聞かせた。
ちょうどまん前、
ヒロが腰掛けている所と一直線上に、ヒロの方へと向かってくる。あのいつもの無駄のない足取りでやって来る!
ヒロは彼女の目を捉えようとした。彼女の目と合っても逸らさないようにしよう。そう心に決めた。取付かれたかのように彼女の目だけを見つめようとした。
彼女は目を逸らさなかった。ヒロも逸らさなかった。ヒロと彼女との間の距離が,彼女自身がこちらにやって来ることによって狭められ、と彼女は右側の方へと行ってしまった。
ヒロのすぐ前を横切って。ただそれだけ。
ヒロは彼女に強く惹かれていた訳ではなかった。と言っても全然関心がないとも言えない。彼女の姿が見えるとどういう訳か、ヒロは彼女の方へと視線を送っているのであった。
彼女の方は飽くまでもヒロを無視している。そうか。それならばヒロ
はその無視振りに挑戦を挑もう。彼女の目はヒロの目と会った。確かに会った。しかし、同時に会わなかった。彼女は
ヒロの目を見ていたのだろうか。見ながらも見ようとはしなかったのもしれない。いつもの彼女のように。
彼女は自身の世界と関わりのないものに対しては無関心なのである。ヒロは彼女にとっては無関心の世界に属する。
残念? 別に。ヒロは自分が創り出した、ささやかな楽しみに慰安を見出そうとしていた。単調に堕しがちな
仕事に少しでも刺激を与える必要がある。生きるとは楽しい筈である。楽しくなければ、楽しさを自分で見出し、
創り出す。それも楽しさの一つであろう。
背後から女性の話し声が聞こえてくる。余り聞いたことがない声だ。ヒロはそれが彼女の声であると直感した。彼女の姿は見えない。奥の方でこちら側にいる別の女性と声を掛け合いながら何か話している。話し相手はあの茶目っ気の32歳、モッドである。今晩の仕事仲間である。彼女は
ヒロとガラスを仕切りに同じ洗い物をしている。
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19xx年9月19日(木)
薄曇
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あと三日。
どうも誰か、ある男性のことが話題に取り上げられているようだ。スウェーデン語で「彼」を意味する単語が聞き取れる。その「彼」とはどうもヒロのことらしい。ヒロを話題にしているらしい。
こちら側にいるモッドに色々と尋ねているらしい。それはヒロの直感であった。それとも、そうであることを
ヒロが無意識にも希望していたのかもしれない。
奥の方にいる彼女の話す声を聞くのはモッドだけではない。ヒロも耳を傍立てるかのように聞いていた。快い響きだ。スウェーデン語の特徴的な、あの抑揚、特に尋ねられた相手が否定または肯定の言葉を発する時の抑揚、
それは聞いていて楽しい。心地良い。思わずヒロは微笑んでいる。音色は女性によって異なる。彼女のそれはまるでフランス語を話しているかのようにも聞こえて来る。
モッドがヒロの顔を下から覗き込むようにして、洗い物に精を出しているヒロの所に近付いて来た。その勢いに押されて
ヒロは少し後退りした。モッドはヒロに言う。
「今日ね、OK(オーケー)でダンスがあるそうよ。それでアンネリーが、もし良かったらついて来ないかと尋ねているのよ。あんたに」
「何時?」とヒロ。
「今晩よ」
「そう」ヒロは関心なさそうに相槌を打つ。
「どう? 今晩、アンネリーと一緒にダンスに行く?」
ヒロは返答に窮した。アンネリーとは、奥の方で働いている、当の彼女の名前だ。彼女の名前を誰かが呼んでいるのを何度か、以前耳に入れていたが、
ヒロ自身、それが彼女の名前であるとは知らなかった。今、初めて彼女の名前を正式に知らされた。
意外であった。驚きであった。まだ一度も口を利いたこともない女性からダンスに招待された。いや、ダンスへの誘いを受けた。返答に窮しているヒロをモッドはスウェーデン語が
ヒロには良く理解出来なかったものと思ったらしく、さらに同じ説明を噛んで含めるように再度繰り返すのであった。
「で、どう? アンネリーがあんたに訊いているのよ」
ヒロは答えなければならない。打診に対して何かを言わなければならない。
ヒロは迷った。迷う必要などないと人は言うかも知れない。しかし、ヒロは迷った。迷いながらも
モッドの即答を要求するような質問に、どう答えたらよいものやら焦った。こういう場合、どう反応すればよいのか。
彼女たち、いや、彼女アンネリーはヒロの意向を訊いている。モッドを介して、ヒロに訊いているのである。ヒロは何かを言わなければならないらしい。
「考えてみなければならない」ヒロは答えた。
モッドは仕切りガラスの反対側、自分の場所へと退いた。
「訊いたの?」アンネリーがモッドに確認している。
「訊いたわよ」
「それで?」
「考えてみなければならないって」
彼女達二人の会話はそれ以後、聞かれなくなってしまった。アンネリーも本来の持ち場へと戻った。
ダンス。ダンス。ダンスと聞いたときの、ヒロの心の中、動揺。ダンス?
このヒロがダンスをやるのか? 一緒に手を取り合って、、、、
やったこともないよ。正式に習ったこともないし、、、、、、、、、、、、。
鍋を洗っていながらも上の空であった。
この
「ダンスの話」つづく