No.13
■はじめてだった、フィンランドひとり旅■ → Pihtipudas
19xx年7月9日(火)曇り、雨、曇り
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■何時の間にか“フィンランド徒歩の旅”に変更?
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薄暗い中で目覚めた。藁の上、寝心地は良かった、とは言えない。見知らぬ国の、見知らぬ土地、畑の一箇所にぽつんと風雨に何年も晒され年季の付いた掘っ立て小屋のようなものの中、よくも一人で不安もなく寝られたものだと思う。
「不安はなかったのですか?」
「はい、全然ありませんでした」
そんな会話が交わされることはなかったが、不安が全然なかったとは断言出来ない。しかし、まさかこんな所に夜、何処からともなく見知らぬ誰かが出現することなど殆ど考えられない、そんなことは殆ど起こらないだろう、と自分に言い聞かせて直ぐにそんなことは忘れてしまっていた。一日歩き続けたから疲れた。休むだけだ。
午前8時40分、起床。
今日も歩かねばならぬこと、人に指摘されなくとも、それは最初から分かっている。車は多分、止まらないことだろう。今朝の心の中は昨日の続きとなってしまっている、今日も止まらないだろう、止まらないだ ろう、と。出発する前から気持ちは消極的になっている。諦め気分。
とにかく今日はPihtipudasまで歩いて行くことにしよう。一気に長距離を行くことは当分、諦めよう。無理することもないのだ。歩いて行くのだから。一日で歩いて行ける距離だ。
実はこんな旅―― つまり歩いて行くだけの旅を続けていると嫌気が挿してくる。が、それでも歩かなければならない。事実として乗せてくれないということなのだから、自分の足で歩いて行くしかないではないか。
そんな国道沿いを、とにもかくにも、肩に食い込む重いリュックを背負って、道の続く限りどこまでも歩き続けなければならない。心の中は悲壮的な決意に染まっていた。異国の土地での、旅の悲劇の主人公にで もなったような思いでもあった。
ヒッチハイクの旅、もちろん一人で続けることには変わりがないが、それが今は一人での“徒歩”の旅となっている。トホ ホ、だ。
勿論、車に乗せて貰って旅をするということを断念、放棄したわけではない。でもこれからもこの調子で歩いて行くばかりとなるとスカンディナビア半島を一周するに何日あっても足らない。
乗せて行って貰って旅を続けようという気持ちは常にある。だからこそ、背の荷がより一層重く感じられるのかも知れず、両足の裏が痛く感じるのかも知れない。
昨日、この右腕を上げ、この親指を立ててヒッチハイクをしているのにという合図を何度も送ったが、車は通過して行くだけだった。
こんな所、国道沿いを、人っ子一人見出せないような国道沿いをとぼとぼと、またはトホ ホと歩いている者とは、一体誰だろう、何処からの人だろう、どんな顔をしているのだろう? そんな好奇の遊び心からか、通過して行った後を振り返ってこの俺様のお顔を眺めようとする。眺めたらそのまま行ってしまう。我は見物料を徴収しているわけでもなし、また眺めたからとて、「おい、眼を付けたなあ!」とか憤って怒って追い掛けて来るわけでもない。車でさっと去ってしまうのだから追い掛けることさえもできない。
俺は乗せて貰いたいんだ。眺めて貰いたいんじゃないよ。こんな気持ちがドライバーに通じる筈がない。
運が悪いとでも言うのか。タイミングが良くないとでも言うのか。
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何時間も待ったというヒッチハイカーの話をよく聞く。その間、その人は何をしていたのだろう。何を思っていたのだろう。何を考えていたのだろう。ちょっと気になる。参考のためにも知りたくなる。
この哀れな一人旅の者を乗せてくれる車が何時かは現れるのを待っている。本当にそんな車が現れるのだろうか? 客観的に捉えて、状況は誠に悲観的である。
現れる確率は高いのだろうか。現れるかどうは実際に現れるまでは分からない、としか返答の仕様がない。現れるだろう、現れる筈だ、という自分に向かってある種の暗示を掛けていることになるのかもしれない。
過去にも車は止まった。そういう経験があるから、これからも止まるに決まっている。止まる筈だ。確かに過去の経験から学ぶことは出来る。いや、学んでいた。学んだ。だからこれからも信じてヒッチハイクの 旅を続ける。
そんな自信というのか、確信がある。信じられるから現れるまで待つ。飽くまでも待つ。幸運にも5分や10分待っただけで現れた、ということばかりとは限らない。30分掛かるかもしれない。いや、一時間、 二時間待つことになるかも知れない。でもきっと現れるはずだ。現れるに決まっている。だから我は我慢して待つ。その現れる車一台に巡り合うまで辛抱して我は待っている。
思うにこれは根気の要る仕事だ。いわば信仰の要る旅の仕方でもある。自分自身に対する自信の程が求め られる。諦めてはならない。飽くまでも信じて待つ。二時間待とうと三時間待とうと構わない―― 構わない? 調子の良いときには、そんな風にポジティブに自分を勇気付けるかのように嗾けていた、発破を掛けていた。諦めたら終わりだ。万事休す。この旅は破綻するしかない。
ところが、実際、三時間も待たされるということならば、結局自分で歩いて行ってしまった方が得策では なかったのか、という自分の確信に対する懐疑が頭を擡げて来ることもある。心の問題ではなく、頭の問題として捉えようとする。気分的に物事を捉えるのではなく、論理的・理性的に捉えようとする。
結果的に3時間も待ったということになると、三時間も待つだけの意味、価値があるのか、あったのか、というプラグマティックな思考法を取る自分に傾き掛けている時もある。
ただ突っ立っているだけで、車が来る度にサインを送る。しかし殆どの車は通過。開始したばかりはまだ良い。まだ自分に対する自信がある。たっぷりある。しかし、次第に時間が経ち、自分は立ったまま待つ、そんなことにやり切れなさを感じ始める。突っ立っていても心の内が揺らぎ始める。
幾ら待っても通過、どれもこれも通過。そうなると待っていることの馬鹿らしさとでも言えば良いのか、嫌と言うほど思い知らされるだけである。
自分との、いや、車との我慢比べと言ったところだ。その何時間もの間、待たずに自分で歩いていたならば、歩いていればいくらかは先へと進むことが出来る。そうしているうちにも乗せて貰えれば、待たずに歩 き続けていた距離、そして時間に対する報いが得られる。
歩き続けながら運良く車に拾われるのを今か今かとドキドキしながら待ち続けるか、それもと一カ所にじっと留まったまま飽くまでも車に拾われるのを待つか。つまり、移動しながら待つか、それとも動かずに、その場に留まったまま待つか、どちらにするか、選択は二つのうちの一つとなる。
どちらの可能性が大きいかを勘案する。予想家ではないから実際の所、ハッキリと分からない。車が止まる確率はどのくらいか。歩いていると止まるのか、立ち止まったままでいると止まるのか。多くの車はこ の国道に関する限り、家族全員揃って何処か、フィンランド国内に幾多と散らばる湖へ、湖畔にでも行くのであろうか、車の中はもう一人(つまり
ヒロのこと)の為の座席余裕はないようである。とんだ国道を選んでしまった、と少々トホホと悔しがっている。日が悪いのか。今日は、西洋でいう所謂魔の金曜日、13日か。そんなことまで持ち出している自分であった。
。。。。。。。。。
曇り空で今にも雨が降って来そうである。これがフィンランド特有の風景というのだろうか。恰も盛り上がった暗緑色のケーキを大きなナイフで半分に切り開いたように、そのケーキが、いや、その森が一直線に スパっと切り開かれたように、白い国道が目の届く限り前方に続く。序でに後ろを振り返ってみる。と、や はり白い国道が続いて来ている。
ああ、とうとう雨が降り出してきた。傘をリュックから引き抜き、差しながら、国道沿いをとぼとぼと歩いて行かなければならない。元気がなくなりつつある。
車はヒロの左脇を時にすれすれに掠るかのように通過、危険だ、人が歩いているのが見えないのだろうか、飛沫を上げながら疾走して行く。雨も降っていることだし、乗せて行って貰えぬものだろうか。無理のこと と分かっていながら、一人“徒歩”の旅の者は濡れたまま思っている。フィンランドの運転手のお慈悲に縋 ろうとしている。
この思いと一緒に、それにこの重いリュックサックも一緒に、雪が降る、でもあなたは来ない、いや雨が 降る、車は止まらない。そしてこの俺様は歩き続けなければならない。一カ所に留まっていることは
ヒロの心 が許さない。何もしていないでじっとしていることに耐えられないのだ。留まっているよりも動いている方 を好しとする。
歩き続けていると、力もだんだんとなくなってくる。腹が減ってくるし、疲れてきているようで、何処かで休息を取りたい。そう思い始める。が、この国道沿い、雨の中、恰好の場所は見出せない。そう思っても いる。全くどうしようもない状況、ただただこのまま歩き続けるしかない。実際歩いているのだ。ゆっくりと、重い足取りで。
何故、今、こうして重いリュックを背負いながら歩いて行かなければならないのか、理由を考えようとしているのか、いや、そんなこと考えている暇はない。心の余裕はない。そう思っている。そんなことを考え たからといっても事態が改善されるわけでもないのに・・・・そんな風にも思っている。とにかく、今は黙々と歩くことが必要なのだ。運転手さん達に無言の行き先を背表示にでもしようか?
立ち止まり、背の荷物が知らぬ間にずり落ちしまったのを訂正するかの如くひょっいと勢いを付けて飛び 上がらせる。一瞬荷が軽くなったような気がする。重荷から解放されたような思いをちょっぴり味わう。
ヘッドライトを付けた車がこちらにやって来るのを見やる。行ってらっしゃい、通過していらっしゃい、とわざわざ見送っているのは、この俺様。一緒に乗せていって貰いたいと思っているのも、この俺様。そん な表情を見て取れたかどうか、そんな顔を
ヒロはしていたかどうかは知らないが、またはそんな異国人の顔を 嫌ってかどうかも知らぬが、通過して行ってしまう運転手様。行ってしまった後、行ってしまったか! と少し無念に感じている。やはり歩いて行くのみなのか。
一台も止まらなかった。全て、全てが通過であった。ヒッチによる旅は無惨にも破綻してしまったかのようだった。
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■新しい一日の始まり
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今朝、いつもの通り、起床。冒頭で記したとおり。そしていつもの通り、出発準備。
午前10時、一夜を明かした納屋小屋を出た。その場所はOuluまでがあと219kmの地点であった。
単純な算数。Ouluまでは200kmとして、一日40km歩けば、5日で着ける。いや多分、途中で色々と道草も食うことだし、もっと掛かるだろう。
1時間歩いて午前11時、Pihtipudasまではあと13km。今日のうちに着ける距離だ。まあ、何とか頑張って歩いて行こう。
出発!
正午、沿道の駐車場、赤く色塗られたテーブルがあって、その上に荷を降ろす。ベンチの上に腰を降ろす。あっ、と気が付いたときは遅かった、雨に濡れたままの上だったが、乗せてしまった。いや構うもんか、とちょっとの負け惜しみの、諦め。赤い腰掛け、水分を吸い取って尻がひやっとする。ここで昼食を取るのだ。腹を膨らませないと力が出ない。歩く元気が出ない。手元にあった残りの、フランスパン全部、残りの水、全部、食べてしまった、飲んでしまった。Pihtipudasに着けば新たに買えるだろう。
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■本日の目的地に着いた
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午後2時半、漸くPihtipudasの入り口に辿り着いた。やっとこさの思いであった。
さっそく水が欲しい、喉が渇いた。水が飲みたい、民家へとまた行って頼んでみようか・・・・・・・・、と心を決めようとしていると自転車に乗った、土地の子供が二人して、
ヒロに話し掛けてくる。
フィンランドの子供は全然異国人または外国人に違和感がないようだ。好奇心が勝っている。ちょうど良い、子供相手にさっそく、辞書と手帳を片手にフィンランド語会話の実践だ。パンを買いたいのだが、何処 で買えるか、と。通じたのか?
ああ、やっと分かったらしい。 こっちに来て、と小さな店に案内された。
Kiitos、坊や、ありがとうさんね。
その店の入り口横でヒロがもたついている、と今度は大きな坊や、いや、大人が話し掛けてきた。英語だ。ちょうど良い、フィンランド語辞書も日本語手帳のことも忘れて、口頭で伝える。水が欲しい、食料を買い たいのです、と。ポリタンクをお店の女店員に親切にも手渡してくれた。欲しい水を持ってきてくれた。
Kiitos、Kiitos、姉さん、どうもどうも。どうもね。
次は買い物。パンは容易に見つかった。序に本場の、いやフィンランドのバターが欲しかった。
「幾らか? 腐らないか? 」
思えば変なことを聞いてしまった。溶けてしまわないか、と聞くべきだった。が、その単語が咄嗟に出て来なかった。別の言い方で質問を繰り返した。
「冷蔵庫に入れて置かなければならないか?」
旅の途上にある身、冷蔵庫を持参しながら旅している訳はなかった。尤も、小型冷蔵庫をショッピングバ ッグの如くローラーを取り付けて引っ張りながら旅を続けたというヨーロッパ人がいた、そんな本人の体験 話を本にしたものをちらっと書店で眼にしたことがある。
とにかく、手元のポケット辞書と手帳のことを思い出して、意思疎通のために総動員だ、総投入だ、懸命に、いや賢明に。しかしそこは外国語を下手な横好きと自分で言いながらも、習いたての外国語を繰ること の好きな私のこと、地元のフィンランド人との生きた会話を楽しみながら、受け答えをしているそんな自分でもあった。
どうやら、チーズが良いだろう、となる。つまり溶けないだろうし、持ちが良いとのこと。バターを諦め、チーズを買うことに決めた。そしてサラミの切れっ端を二つ、フィンランド通貨で、1マルカ。
「合計5.10マルカです」
「Kiitos、Thank you」
高い買い物であったのかどうなのか、吟味することも忘れ、もう一度、お姉さんに、ありがとうさんね。
お店を出ようとする。
「Gute Reise! 」とその女店員。
あれれっ、俺をドイツ人とでも思ったのだろうか。
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今、教会の側面入り口の石階段の上、そこに何の遠慮も断りもなく腰を降ろして、自分一人の食事をしていた。食後、そのまま腰掛けたままフィンランドでの旅日記を以上のごとくその要点だけを記しているので あった。
今何時頃だろう?
―― 午後5時半か、さて、と。