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スウェーデン風のディズニーランド
または
アストリッド・リンドグレン児童女流作家
彼女の本は日本語にも翻訳されていますから、ご存知の方もいらっしゃることかと思います。
ウェッブサイトに彼女自身が「自分を語る」ということで発表されていましたので、参考までに、練習問題の積りで訳してみました。以下の通りです。
スウェーデンには世界的に有名な女流作家がいらっしゃいました。つい最近亡くなられた(2002年1月28日死亡、享年94歳)のですが、彼女は世界の子供達のために沢山の本を書いて下さいました。
生まれた時から始めましょうか。わたくしは1907年の11月、りんごの木に囲まれた古い赤い家で生まれました。農夫サミュエル・アウグスト・エリックソンとその妻ハンナ(結婚前はヨンソンという名でしたが )、二人の間の二番目の子として生まれました。
わたしたちが住んでいた農場は Näsと呼ばれていました。今もそう呼ばれています。
スモーランド州にある小さな町Vimmerrby(ビンメルビー)の近くにあります。Näsは1411年以来、牧師館でした。今もそうです。わたしの父親は牧師ではありませんでしたが。父は自分の父親がそうしたようにNäsを貸し出し、今は自分の息子が同じことをしています。 赤い家では更に二人の子供が生まれました。この家は上でも述べましたように牧師館で、後には貸し出されたのです。子供たちは全員四人でした。グンナール、アストリッド、シュタイン、そしてイグノレッド。 Näsでは幸せな日々を過ごしました。殆どthe
Bullerby booksブラビーの本の中の子供たちのようにです。
わたしたちはVimmberyにある学校に行きました。直ぐ近くにありましたのでたったの15分で行けました。ブラビーの子供達のようにわたしたち子供も大きく成長し、世の中へと出て行く時がやってきました。 わたしはストックホルムへと行き、秘書としての訓練を受け、オフィスで働くようになり、結婚し子供は二人でした。ラルスとカリンです。この二人は
お話を聞かせてとせがむのです。そうしましたが、その当時はまだ本は書きませんでした。書くことを考えましたが、そうしないことに決めました。本を書くか書かないか、大抵の人は意識的に決めませんが、わたしの場合、書かないと決めました。
1941年、7歳の娘が肺炎でベッドに寝転がっていました。毎晩、ベッドの傍に腰掛けると、子供たちなら誰もがするようにわたしにせがむのでした。「ねえ、お話してちょうだい」。ある晩、わたしは大変疲れていたのですが、娘に聞いてみました。「何のお話を
聞きたいの?」「ピッピ・ロングストッキングのこと、お話して」。娘はその場でそんな名前を作り上げました。ピッピ・ロングストッッキングって誰のこと? とは聞きませんでした。わたしは直ぐにお話を始めました。ピッピという名前が変だったので、変な女の子になっていきました。カリンは最初から、お友達も後からでしたピッピが好きだったのでわたしは何度も何度もピッピのお話をしなければなりませんでした。それが何年も続いたのです。 1944年3月、ある雪の降る晩でした。ストックホルムの中心にある、 Vasa公園の傍を歩いていました。歩道は氷が張り詰めたようになっていて、また降ったばかりの雪に覆われていました。わたしは転んでしまい、足を酷く傷つけ、しばらくはベッドに寝転がっていなければなりませんでした。時間を潰すために、ピッピの
お話を全部速記で書き下すことに決めました。秘書として働いていた当時から速記が得意でしたし、わたしは書く本は全て第一稿目は速記で書いています。 1944年5月、娘のカリンは10歳の誕生日を迎えようとしていました。思いついたのですが、ピッピのお話をちゃんと書き出して、その原稿を娘の誕生日祝いのプレゼント
とすることにしたのです。後ほど、同じ原稿のコピーを出版社へも送ることしました。出版するなどとはちっとも思っていませんでした。出版しなくたって構いません。
そんな風に思っていました。時々、わたしはピッピの
振る舞いにショックを受けるのでした。出版社宛てへの手紙の最後にこのように書いたのを覚えています。「この原稿をお送りいたしますが、社会事業の人たちに電話を入れないことを願います」 そうです。わたしも二人の子供があって、そんな本を書く母親と一緒の子供たちは将来どうなることやら。
予想通り、原稿は戻ってきました。それが戻ってくる前には既に2冊目を書くことで忙しいかったのですが、この書くという作業に自分が喜びを感じていることを発見しました。2冊目の"Britt-Mari
Lightens her Heart"『ブリット=マリーがほっとする』は女の子のために書きました。1944年、Rabén & Sjögren(ラーベン・オク・ショーグレン)出版社は女の子のための本のコンテストをしました。 で、凄いことが起こったのです。わたしは二等賞を得たのです。賞を獲得したというニュースを受け取ったのは1944年の秋、夕方でしたがあんなにも嬉しかった自分は今までありませんでした。翌年、同出版社は児童用の本のコンテストを行いました。そこでわたしはピッピの原稿を幾分改訂したものですが、これで参加し、一等賞を得ました。 それからと言うものは、色々なことが次から次と起こりました。ピッピの本は成功。この本を読んだ人たちの中にはこの本を読んだ子供たちがピッピのように振舞うのではないかとショックを受けました。「普通の子だったらパーティーで誕生日のケーキを丸ごと飲み込むことはしません」とある憤慨した読者は書いてきました。確かにその通りです。普通の子だったら腕を伸ばして馬一頭を持ち上げること
だってしません。でも、馬一頭を持ち上げられる女の子なら、ケーキを丸ごと食べることも出来るでしょう。 1946年、ラーベン・オク・ショーグレン出版社は10代の子供たちのための探偵小説のコンテストを行いました。わたしは"Master Detective Blomkvist"という題名の本で参加し、一等賞を得ることが出来ました。コンテストに参加したのはそれが最後でした。勿論、わたしは書き続けました。40冊ほどの本、
それから絵本、お芝居や歌の本があります。ラジオやテレビのシリーズ物も幾つか書きました。 1946年から1970年まではラーベン・オク・ショーグレン出版社の児童用の本を扱う部署の責任者となりました。 1952年からは未亡人となり、二人の子供たちも結婚、でも息子は1986年の夏、死亡。孫が7人、曾孫が8人います。そうですよね、こうしたことを皆さんは普通知りたがるものですよね。 「本を書いて何を言い表そうとしているのですか?」 「『長くつしたのピッピ』の本ではどのような考え方を探ろうとされているのですか?」 「子供用の本を通して子供たちにどのように影響を与え教育できるでしょうか?」 「子供用の良書とは内容的には何でしょうか?」等々。
こうした質問については以下のようにお答えしましょう。ピッピを書いているときも別の本を書いているときも、何かを説明するということはしませんでした。自分の中の子供心を楽しませるためにわたしは書いているのですし、そうすることで子供たちも同じように楽しめればよいと思っています。
子供用の良書とはなんでしょうか、という質問については、答えを知りません。わたしが書くときには芸術的な観点から「真摯」であろうとするだけです。わたしの指針はそれだけです。 「Farsta(ストックホルムの南の地区)にいる、離婚した両親の子供であるとはどんな風だろうかといった本は書かないのですか?」とある人はわたしに尋ねましたが、この点については「わたしは自分が知っていることしか書けません」と答えることが出来ます。離婚した両親と一緒にFarstaで大きくなることがどんな風なのかわたしは分かりません。でもある日、そんなことを書く子がその辺を今現実に歩いているかもしれません。
The Bullerbyの中の子供たち、 Lönnebergaの中のエミール, Rasmus and the Sunnanäng
の中の子供たちは皆田舎のど真ん中に住んでいます。Pippi Longstocking, Master Detective Blomkvist, the
children in Troublemaker Street and Madickenの子供たちは皆、小さな町に住んでいます。ストックホルム半島で30回も夏を迎えた後、 Karlsson
の話にはストックホルムを話の場面を敢えて設定しました。あのmiljoeronmentもそこに60年間住んだ後、良く知るようになりました。Mio my
Mio, 『ミオよわたしのミオ』the Lionheart Brothers and Ronjaについてはどうでしょう?Farstaに住むということについてはDistant Land
, Nangijala and the Mattis Forest『はるかな国の兄弟』に住むということがどんなふうであるかについてもっと良く知っていますでしょうか? 答えは、はい、そうです、と言えます。でもどうして良く知っているのか、その点に付いてはお教え致しませ
ん。
この質問は沢山受けています。わたしの答えはこうです。自分の中の嘗て子供だった自分、そんな子供からの刺激を受けること以上のものはありません。子供用の本を書くのに自分の子供を持つ必要はありません。唯一つの条件、それは自分自身が嘗て子供であったということ、そしてどうであったかを思い出してみる
ことです。
最後になりますが、私の本を読む子供たちに対して何かを教育するとか何らかの影響を与えるとかいったように意識的に取り掛かることはありません。わたしが敢えて望むとするところは読者のみなさんがもっと人間の顔をした、生きることに積極性が増し、民主的な見方が出来ることを願っています。
読むだけの価値しかない本の存在を否定するものではありません。見知らぬ人からメモを手渡されたことがあります。「わたしの陰鬱だった子供時代に幾ばくかの光をもたらしてくれて有難うございます」と。わたしにはそれで充分です。ただ一人の子供の生活に太陽の輝きを少しでももたらすことが出来ていたとするならば、わたしとしてはそれで満足なのです
どんな賞と褒賞を受け取ったのか、ということですので、次にはわたしが受けた順に最も重要なもののリストを挙げたいおもいます。このページには私の本が翻訳された国の言語が挙げてあります。このリストに載っている国の言葉にわたしの本全てが翻訳されたという訳では有りませんが、一冊か何冊かはここに載せられた国の言葉に全て訳されています。
みなさん方から寄せられた質問のいくつかは答えるのが簡単ですが、幾つかのものは難しいのですよね。例えば、
わたし自身に関してですが、スモーランド州の、小さな町で大きくなること、田舎の子供であること、あったことがどんな風であるかは正確に知っています。わたしが書く物語の多くは場面設定がそうした場所になっています。
「ご自分のお子さんやお孫さんたちから刺激を受けていますか?」
▼スウェーデン風のディズニーランド▼
さて、彼女の本には色々な子供たち、主人公が出てきますが、そうした主人公をテーマとした「アストリッド・リンドグレンの世界」といったエンタテーメントパークがあります。さしずめ、スウェーデン風ディズニーランドとでも言えましょう。子供も大人も楽しめる。彼女の本の世界を現実的に体験できるということのようです。
彼女の本のファンの方はスウェーデンにいらっしゃることがありましたら、一度訪ねてみたらいかがでしょうか。
(04. 07 .2004)
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